将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2) 論文
『人間科学:大阪府立大学紀要』4 2009年2月 57〜106頁
将来世代を産出する義務はあるか?
生命の哲学の構築に向けて(2)
森岡 正博* 吉本 陵**
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全体目次:
はじめに 森岡正博
第1章 ハンス・ヨーナスの将来世代論について 吉本陵
第2章 将来世代を産出する義務はあるか? 森岡正博
はじめに 執筆:森岡正博
本論文は、ハンス・ヨーナスの「将来世代への責任論」が内包しているところの、「われわれに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いに対して、哲学的な考察を行なうものである。もしわれわれが将来世代に対して責任を負うのであれば、その前提として将来世代は将来に存在しなくてはならない。将来世代が将来に存在するためには、われわれ現在世代が将来世代を産出しなければならない。ということは、われわれには将来世代を産出する義務がある、ということになるのだろうか。
この問いは、ハンス・ヨーナスの「将来世代への責任論」に論理的に含まれているが、ヨーナス自身は、この問いを独立した考察の対象とはしていないように見える。吉本は� ��の点に関するヨーナスの思索を摘出し、その意味するところのものを考察する。その際に、ヨーナスに応答したカール=オットー・アーペルの議論、およびこの論点をいちはやく指摘した品川哲彦の議論をも考察する。森岡は、「将来世代を産出する義務はあるか?」という問いを正面から受け止め、それに「産む産まないは女が決める」というフェミニズムの主張を対比させることによって、この問いに対してどのような答えを与えることができるのかを考察する。
本論文は、連載「生命の哲学の構築に向けて」の第2回にあたる。本論文で論点とした「産出」の問題系は、「生命の哲学」の中心的なテーマのひとつであると考えられる。本論文は、「産出」の問題系について哲学的に取り組むための序説的な試みである。問題の 大きさゆえに、とくに第2章において荒削りな議論が散見されることは承知しているが、今後、多方面の読者からの批判を仰ぎながら、議論を深めていきたいと考えている
なお、第1章の文責は吉本、「はじめに」および第2章の文責は森岡が、それぞれ排他的に負うことを明記しておきたい。
第1章 ハンス・ヨーナスの将来世代論について
執筆:吉本陵
目次:
序
1 義務と責任
2 ヨーナスの未来倫理としての責任倫理学
2−1 『責任という原理』における「生殖への義務」の位置づけ
2−2 将来の人類に対する責任の根拠づけ
2−2−1 「人間という理念」に基づく存在論的根拠づけ
2−2−2 自然哲学に基づく根拠づけ
3 討議倫理学による批判とそこから見えてくるもの
3−1 討議倫理学による批判
3−2 討議倫理学による批判から見えてくるもの
3−2−1 『正義と境を接するもの』の検討
3−2−2 ヨーナスとアーペルの対立の背景について
結
序
本稿は「わ� �われに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いに対して、ハンス・ヨーナス(Hans Jonas, 1903-1993)が『責任という原理[1]』において提示した責任倫理学に定位して解答を試みるものであり、それと同時にその背景にある未来倫理としての責任倫理学の根拠づけをめぐる諸問題について考察することを主題とする。
ヨーナスは『責任という原理』において、現代テクノロジー文明における人間の営為は、その影響力が及ぼす射程を飛躍的に拡大させた結果、従来の人間の営為とは質的に異なるものとなったというテーゼを議論の出発点として設定する。現代テクノロジーの能力は、深刻な自然破壊をもたらすことによって地上における人類の存続をも脅かすものとなったからである。このような状況認識の下で、ヨーナスは現代テクノロジーの及ぼす影響力の射程が遠い未来にまで延びたことに対応して、倫理学は未来倫理Zu kunftsethikという姿をとらなければならず、「(人間の)未来に対する責任」が現在に生きる私たちに課せられているのだと主張した。
冒頭の問いは、『責任という原理』の中心的な主題では必ずしもないにせよ、その枠内に収まる問題である。したがってヨーナスの責任倫理学ないし未来倫理(学)の立場からこの問題を考察することによって、私たちは一定の解答への示唆を期待することができるだろう。
1 義務と責任
「われわれに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いは、「生殖への義務は存在するか、存在するとしたらそれはどのような仕方で根拠づけられるか」という問いとして理解することができる。以下ではまず、この問題を扱うのに先立って「義務」と「責任」という用語の意� �について整理しておきたい。
ヨーナスの言う「責任」は「力の義務Pflicht der Macht[2]」と言い換えることができる。ヨーナスは次のように言う。
「責任の対象」は私の外部にあるが、私の力の影響範囲にあり、私の力を頼りにしているか、あるいは私の力によって脅かされている。責任の対象は自身が現に存在することDaseinへの権利によって私の力に対抗する。この権利は責任の対象が何であり、あるいは何でありうるかによって生じる。責任の対象は道徳的な意志を通じて力を力の義務の中へと引き入れるのである。・・・固有の権利をもつ依存するものが命じるものとなり、原因となる力をもつものが義務を課せられるものとなるのである[3]。
ここで言われているのは、「力をもつもの」が「力に委ねられ脅かされているもの」に対して課せられる義務が責任と呼ばれるということである。ヨーナスは「義務」については定義めいたものを記しているわけではないが、それは「何らかの命法Imperativによって倫理的な主体に課せられる当為Sollen」であると理解してよいだろう。したがって責任は様々な義務の中の一つのタイプとして、「力をもつもの」の義務、より細かく言えば「力をもつもの」と「力に依存するもの」という非相互的な関係において前者に課せられる義務であると言い換えることができるだろう。以下の論述ではこのような意味合いで「義務」「責任」という術語を用いていくことにする。
2 ヨーナスの未来倫理としての責任倫理学
2− 1 『責任という原理』における「生殖への義務」の位置づけ
問題を確認しておこう。本稿の冒頭の問いは、「生殖への義務は存在するか、存在するとしたらそれはどのような仕方で根拠づけられるか」という問いとして理解されていた。ヨーナスはこの「義務」について何を語っているのだろうか。ヨーナスは『責任という原理』のある一節において次のようなかたちで「生殖への義務(Pflicht zur Fortpflanzung)」に言及している。
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