2012年3月28日水曜日

将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2)


将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2)

論文

『人間科学:大阪府立大学紀要』4 2009年2月 57〜106頁
将来世代を産出する義務はあるか?

生命の哲学の構築に向けて(2)
森岡 正博* 吉本 陵**

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全体目次:

はじめに                          森岡正博
第1章 ハンス・ヨーナスの将来世代論について  吉本陵
第2章 将来世代を産出する義務はあるか?    森岡正博

 

はじめに 執筆:森岡正博

 本論文は、ハンス・ヨーナスの「将来世代への責任論」が内包しているところの、「われわれに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いに対して、哲学的な考察を行なうものである。もしわれわれが将来世代に対して責任を負うのであれば、その前提として将来世代は将来に存在しなくてはならない。将来世代が将来に存在するためには、われわれ現在世代が将来世代を産出しなければならない。ということは、われわれには将来世代を産出する義務がある、ということになるのだろうか。
 この問いは、ハンス・ヨーナスの「将来世代への責任論」に論理的に含まれているが、ヨーナス自身は、この問いを独立した考察の対象とはしていないように見える。吉本は� ��の点に関するヨーナスの思索を摘出し、その意味するところのものを考察する。その際に、ヨーナスに応答したカール=オットー・アーペルの議論、およびこの論点をいちはやく指摘した品川哲彦の議論をも考察する。森岡は、「将来世代を産出する義務はあるか?」という問いを正面から受け止め、それに「産む産まないは女が決める」というフェミニズムの主張を対比させることによって、この問いに対してどのような答えを与えることができるのかを考察する。
 本論文は、連載「生命の哲学の構築に向けて」の第2回にあたる。本論文で論点とした「産出」の問題系は、「生命の哲学」の中心的なテーマのひとつであると考えられる。本論文は、「産出」の問題系について哲学的に取り組むための序説的な試みである。問題の 大きさゆえに、とくに第2章において荒削りな議論が散見されることは承知しているが、今後、多方面の読者からの批判を仰ぎながら、議論を深めていきたいと考えている
 なお、第1章の文責は吉本、「はじめに」および第2章の文責は森岡が、それぞれ排他的に負うことを明記しておきたい。

 

第1章 ハンス・ヨーナスの将来世代論について
執筆:吉本陵

目次:

1 義務と責任
2 ヨーナスの未来倫理としての責任倫理学
2−1 『責任という原理』における「生殖への義務」の位置づけ
2−2 将来の人類に対する責任の根拠づけ
2−2−1 「人間という理念」に基づく存在論的根拠づけ
2−2−2 自然哲学に基づく根拠づけ
3 討議倫理学による批判とそこから見えてくるもの
3−1 討議倫理学による批判
3−2 討議倫理学による批判から見えてくるもの
3−2−1 『正義と境を接するもの』の検討
3−2−2 ヨーナスとアーペルの対立の背景について

 本稿は「わ� �われに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いに対して、ハンス・ヨーナス(Hans Jonas, 1903-1993)が『責任という原理[1]』において提示した責任倫理学に定位して解答を試みるものであり、それと同時にその背景にある未来倫理としての責任倫理学の根拠づけをめぐる諸問題について考察することを主題とする。
 ヨーナスは『責任という原理』において、現代テクノロジー文明における人間の営為は、その影響力が及ぼす射程を飛躍的に拡大させた結果、従来の人間の営為とは質的に異なるものとなったというテーゼを議論の出発点として設定する。現代テクノロジーの能力は、深刻な自然破壊をもたらすことによって地上における人類の存続をも脅かすものとなったからである。このような状況認識の下で、ヨーナスは現代テクノロジーの及ぼす影響力の射程が遠い未来にまで延びたことに対応して、倫理学は未来倫理Zu kunftsethikという姿をとらなければならず、「(人間の)未来に対する責任」が現在に生きる私たちに課せられているのだと主張した。
 冒頭の問いは、『責任という原理』の中心的な主題では必ずしもないにせよ、その枠内に収まる問題である。したがってヨーナスの責任倫理学ないし未来倫理(学)の立場からこの問題を考察することによって、私たちは一定の解答への示唆を期待することができるだろう。

1 義務と責任

 「われわれに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いは、「生殖への義務は存在するか、存在するとしたらそれはどのような仕方で根拠づけられるか」という問いとして理解することができる。以下ではまず、この問題を扱うのに先立って「義務」と「責任」という用語の意� �について整理しておきたい。
ヨーナスの言う「責任」は「力の義務Pflicht der Macht[2]」と言い換えることができる。ヨーナスは次のように言う。

「責任の対象」は私の外部にあるが、私の力の影響範囲にあり、私の力を頼りにしているか、あるいは私の力によって脅かされている。責任の対象は自身が現に存在することDaseinへの権利によって私の力に対抗する。この権利は責任の対象が何であり、あるいは何でありうるかによって生じる。責任の対象は道徳的な意志を通じて力を力の義務の中へと引き入れるのである。・・・固有の権利をもつ依存するものが命じるものとなり、原因となる力をもつものが義務を課せられるものとなるのである[3]。

 ここで言われているのは、「力をもつもの」が「力に委ねられ脅かされているもの」に対して課せられる義務が責任と呼ばれるということである。ヨーナスは「義務」については定義めいたものを記しているわけではないが、それは「何らかの命法Imperativによって倫理的な主体に課せられる当為Sollen」であると理解してよいだろう。したがって責任は様々な義務の中の一つのタイプとして、「力をもつもの」の義務、より細かく言えば「力をもつもの」と「力に依存するもの」という非相互的な関係において前者に課せられる義務であると言い換えることができるだろう。以下の論述ではこのような意味合いで「義務」「責任」という術語を用いていくことにする。

2 ヨーナスの未来倫理としての責任倫理学

2− 1 『責任という原理』における「生殖への義務」の位置づけ

 問題を確認しておこう。本稿の冒頭の問いは、「生殖への義務は存在するか、存在するとしたらそれはどのような仕方で根拠づけられるか」という問いとして理解されていた。ヨーナスはこの「義務」について何を語っているのだろうか。ヨーナスは『責任という原理』のある一節において次のようなかたちで「生殖への義務(Pflicht zur Fortpflanzung)」に言及している。


白の人々を人種差別を傷つけたか

・・・将来の人類に対する責任とは、私たちは第一に、将来の人類が<現に存在することDasein>に対して義務を負っており――これは人類の子孫のうちに自分の直接の子孫がいるかどうかとは無関係に妥当する――、第二に、将来の人類が<存在するあり方Sosein>に対しても義務を負っているというものである。第一の義務には生殖への義務が含まれている(個々人にとっての義務でなければならないというわけではないが)。そして第一の義務は、生殖への義務も同様だが、子どもを生み出した者〔親〕がその者が原因となって引き起こされた者〔子ども〕に対してもつ義務を拡張させるだけでは導き出せない。私たちはそのような義務が存在すると考えたいのだが、それはまだ根拠づけられてはいない[4]。

 ここでは「生殖への義務」は「将来の人類に対する責任」に包摂されるものとして――厳密には「将来の人類が<現に存在すること>」に対する義務に包摂されるものとして位置づけられている。
 ところで「将来の人類が<現に存在すること>」に対する義務は、ヨーナスが『責任という原理』の中で「人類は存在しなければならない(Eine Menschheit sei:人類よ、存在せよ)」を責任倫理学の「第一の命法[5]」と記したときに、彼の念頭にあった義務である。それゆえ、以下のように推論することができる。「人類は存在しなければならない」がゆえに、「将来の人類が<現に存在すること>」が義務として現在の人類に課される。その結果、「将来の人類が<現に存在すること>」に対する義務に包摂されるものとして位置づけられる「生殖への義務」もまた現在の人類に課されることになる、と。したがって、「生殖への義務は存在するか」という問いに対しては、ヨーナスの責任倫理学の立場からは「然り」と解答されることになる。

2−2 将来の人類に対する責任の根拠づけ

 次に問題となるのは、「生殖への義務」はいかにして根拠づけられるかという問いである� �ヨーナスは「生殖への義務」を包摂する義務としての「将来の人類に対する責任」について二つの仕方で根拠づけを提示している。一つは存在論的な根拠づけであり、もう一つは自然哲学的な根拠づけである。

2−2−1 「人間という理念」に基づく存在論的根拠づけ

 まず前者から見ていこう。「将来の人類に対する責任」の根拠となる責任倫理学の第一命法「人類は存在しなければならない」は、人間という理念(Idee des Menschen)から下される命令である、とされる。「人間という理念に対する存在論的責任」というタイトルの付せられた節において、ヨーナスは次のように言う。

人間という理念は、自身が具体的な姿を取って世界の中に現前することAnwesenheitを要求するものである。言い換えればそれは存在論的な理念である。しかしそれは、神概念が存在論的証明において言われているのとは違って、理念の対象が実在することExistenzが本質によってすでに保証されているわけではない。それとは大違いである。人間という理念は次のように言う。すなわち人間という理念が具体的な姿を取って世界の中に現前するそうした現前が存在すべし、したがって保護されるべし、と。それゆえ人間という理念は自身の現前を私たちの義務とする。私たちはその現前を脅かしうるからである[6]。


ファンにクリムゾンタイドは何ですか

 人間という理念が、自身の具体的な姿が世界の中に現前すること、つまり地上における人間の存在を要求するのは、地上における人間の存在が善きものだからである[7]。ヨーナスによれば、善という概念には自身の実現への要求がすでに含まれている[8]。したがって善きものとしての地上における人間の存在は、その実現を阻み得る意志に対して、「人間は存在しなければならない」という当為を発するということになるのであり、これはまさしく人間という理念から下される命令の内実に他ならない。それゆえ「生殖への義務」はいかにして根拠づけられるのかという問いに対しては、「人間という理念」が人類の地上に現前を要求するがゆえに、すなわち「人類は存在しなければならない」がゆえに、その義務に包摂されるものとし� ��の「生殖への義務」もまた(存在論的に)根拠づけられるのだ、と解答されることになる。
 人間という理念が地上における人間の存在を要求するのは、地上における人間の存在が善きものだからなのだが、では地上における人間の存在が善であるとされるのは何故なのだろうか。あるいは地上における人間の存在が善であるとすることによってヨーナスは何を語ろうとしているのだろうか。
 この問題をより深く理解するために、ヨーナスが晩年に発表した「未来倫理の存在論的基礎づけのために」という論考を参照しよう[9]。この論考のなかで同種の議論が別の角度から扱われているからである。
 ヨーナスは「なぜ人類は存在しなければならないか」という問いに対して、「未来倫理の存在論的基礎づけのために」にお� �ては次のような議論によって応じようとする[10]。人間は責任をもつことのできる唯一私たちに知られた存在者Wesenである。責任をもつという能力は人間の本質的特徴Wesensmerkmalをなしている。私たちはこの能力を価値あるものとして直観的に認識する。この価値が世界に現われることによって世界は、それが現われる以前に比して質的に異なる段階に到達する。この段階においては責任の能力それ自体が護られるべき対象、すなわち責任の対象となる。私たちは責任の能力をもつことによって、責任が地上に存続し続けるように義務づけられる。責任の能力は責任の能力をもつ唯一の存在者である人間に結びついているがゆえに、世界から責任が消えてしまわないように将来にわたって人間が存在すべしという義務がそのつどの人間(人類� �に課せられることになる。すなわち責任は、当面は個々の行為の対象に対する責任であるが、それと同時に責任それ自体に対する存在論的な責任でもあるのである。
 ここでは世界における人間の現前の善さは、世界における責任の現前の善さとしてとらえ返され、人間の存在に対する存在論的な責任は、責任それ自体に対する存在論的な責任として語り直されている。すなわち、世界における人間の現前が善であるのと同様に、世界における責任の現前が善であり、そのことが人間ないし責任の現前に対する責任の存在論的な根拠となっている、ということである。
 しかしながら、「未来倫理の存在論的基礎づけのために」における議論、すなわち責任の現前に対する存在論的な責任についての議論は「証明Beweis」ではないこ� �をヨーナスは進んで認めている[11]。なぜならそこでは二つの前提――責任の能力それ自体が一つの善であること、すなわち責任の能力が世界に現前することが現前しないことよりも優れているということと、存在のうちに根づいたものとしての価値それ自体というものが存在すること、すなわち存在は客観的に価値を備えているということという二つの前提――が証明されることなく公理として設定されているから、というのがその理由である。それゆえ結局、ヨーナスは次のように述べる。「最終的には私の議論は、内的な説得力によって思慮深い人Nachdenklicherが選び出す一つの選択肢Optionを理性的に基礎づける以上のことはできない。残念ながら、私はこれ以上のことを提示することはできない。将来の形而上学がそれをなしうるかも しれない[12]」。
 ヨーナスは、責任の能力の世界における現前が一つの善であることは直観的に認識される、と述べていたが、このことはヨーナスの根源的な洞察であるとともに、ヨーナスの思考を大きく規定するものでもある。人間を取り囲む世界に蔑視の眼差しを向けるグノーシス主義的な、あるいはニヒリズム的な世界理解に抗して、「世界における善」について、あるいは「世界という善」についてヨーナスは一貫して肯定的な態度をとる[13]。このようなヨーナスの直観的な洞察は、自然についての省察から引き出されている。

2−2−2 自然哲学に基づく根拠づけ


ワードdagnabitの起源は何ですか?

 ここで問題を再確認しておこう。「生殖への義務」を包摂する「将来の人類に対する責任」は、「人類は存在しなければならない」という命法によって現在の人類に課されるのだが、それは地上における人類の現前が善きものだからである。地上における人間の現前が善きものであることは、それ自体は証明されていない公理であり、「思慮深い人に選んでもらうべき一つの選択肢」であるとともに、ヨーナスの直観的な洞察でもある。そしてこの洞察を支えているのがヨーナスの自然哲学なのである。
 「地上における人間の現前の善さ」の洞察を支えているのが自然哲学であるというのは一見奇異に思えるかもしれないが、それは次のような事情に� ��っている。
 ヨーナスは古めかしくも映る仕方で次のように指摘する。すなわち、「人間の善を引き出すのは、人間の本質Wesenからでなければなら」ず、その役割を果たすのはまずもって形而上学であり、そしてただ形而上学のみがなぜ人間が存在しなければならないかを語るのだ、と[14]。つまり「人間とは何か」を問う形而上学のみが倫理学の根拠としての(人間の)「善」についても語りうるのだ、というのである。もちろんこのような仕方で形而上学を持ち出すことにはくりかえし批判が寄せられている[15]。大急ぎでつけ加えなければならないのは、ヨーナス自身も形而上学を独断的に提示しているわけではないということである――「形而上学を必要としているということは、まだそれをもっているということではない[16]」� ��しかしながら、ヨーナスが一つの選択肢を提示するにとどまるという留保をつけつつも、形而上学的な議論を展開していることを想起するならば、「形而上学をもっていないということは、もはやそれを必要としないということでもない」とつけ加えることもできるだろう。実際それがヨーナスの立場なのである。
 「人間とは何か」という問いは人間の自己理解への問いである。ヨーナスはこの問いを広い意味での自然哲学との連関の下に置く。ヨーナスによれば私たちの人間理解は「観念論および実存主義の哲学の人間中心主義的な制約」と「自然科学の物質主義的〔唯物論的〕な制約[17]」という二つの極によって、自然理解ともども歪められている。この二つの制約をともに打破することによって、人間と自然の統一的な関係� �快復させること――あるいは少なくとも人間と自然の断絶の経験に対する批判を行うこと――それがヨーナスの自然哲学ないし「哲学的生命論」の主題であった。私見によれば、まさにこのことがヨーナスが自身の哲学の中心的な課題として引き受けたものであったとさえいえるのである。
 人間と自然の断絶は、歴史上さまざまなかたちで現われた二元論――ヨーナスが議論の俎上に載せるのは、グノーシス主義的な地上の世界(劣悪な神デミウルゴスが創造した世界)と超越的な世界(知られざる神agnostos theosの世界)の二元論、キリスト教的な霊肉二元論、そしてデカルト的な心身二元論――において表現される。ヨーナスがこれらの二元論的な世界理解を問題として取り上げるのは、それらが人間と自然の断絶の経験を表現するものだからであり、その表現はニヒリズム的な経験と表裏一体をなすものだからである[18]。この論点はヨーナスが自身の研究生活の出発点であったグノーシス主義研究から見いだしたものであり、同時に後の自然哲学研究および倫理学研究の端緒を示してもいる。したがってヨーナスの自然哲学研究は、二元論がはらむアポリアと、二元論を克服したと称する物質主義的(唯物論的)一元論がはらむアポリアとを繰り返し指摘し、両者に対する批判を踏まえて「新たな統合的な一元論、すなわち哲学的な一元論[19] 」を、少なくともその可能性を、提示するものである。人間と自然の統一的な関係の快復は、この一元論の下で目指されるのである。
 ヨーナスは人間を自然物である有機体の歴史的な発展の最後の局面として位置づける。詳細は別稿に譲ることにし[20]、ここでは概略を述べるにとどめる。ヨーナスは生命の客観的な形式である有機体の発展の歴史を自由の発展の歴史として理解しようと試みる――自由という概念は生命を解釈する際の「アリアドネの糸[21]」である。自由の発展は有機体の発展と歩みを合わせて進んでいく。原初の有機体の段階(植物的段階)における新陳代謝の能力から、動物的段階における知覚・移動・情動の能力へ、そして人間的段階における図像能力へ、と。新陳代謝の能力は、(非有機体である物質がそう であるような)質料的な同一性から解放されたあり方(形相の同一性)を示しており、この解放性のうちに自由の原初の閃きが見いだされる。この解放性は有機体と世界との間に隔たりが生じたことを意味している。有機体は新陳代謝を介して隔たった世界と関係を結びなおすのである。知覚・移動・情動の能力は、獲物を知覚しそれを捕らえたいという情動を抱き獲物を捕らえるべく運動することを可能にする。このような仕方で営まれる動物的生活においては有機体と世界との隔たりはいっそう増している(植物的段階における「獲物」は最初から物理的に接触している)。この新たな隔たりのうちに動物的段階の解放性が、すなわち自由が現われている。ある対象に似せたものをその対象の「像」として把握する「図像能力」は、人� ��に固有の能力であるが、像を媒介させることによって人間は直接に現前していないものを対象として間接的に扱うことができるようになる。このとき世界と有機体(の人間的段階)との隔たりはいっそう増しており、人間は像を用いることによって対象の直接的な現前から解放される。ここに自由の最後の発展が見いだされるのである。
 このような仕方で、ヨーナスは人間を自然物としての有機体との連続性の中に置きいれ、人間を含む有機体の発展の歴史を統一的にとらえようとするのである。その上で、ヨーナスは有機体をその客観的な形式とする生命について次のように言う。

生命を生み出すことによって少なくとも自然は一つのはっきりとした目的を告げている。それはまさに生命それ自体である。このことは、「目的」一般が主観的にさえ追求され享受される限定的な目的へと解放されることをまさしく意味しているのだろう。生命が自然の目的にほかならないと語ることは慎もう。あるいは自然の主要な目的に過ぎないのだと語ることであっても慎もう。そのようなことについては私たちはいかなる推測もできないのだから。一つの目的だと語ることで十分なのである[22]。


 自然は生命を生み出すことによって、生命の存在そのものが自然の目的(の一つ)であることを告げている、とヨーナスは言うのである[23]。それゆえ、生命の発展の結果として姿を現わした人間(人類)もまた自然の目的の一つである、ということになる。自然の目的は人間を含む全体的なものとして、その一部である人間の主観的な目的よりも優位に置かれる[24]。人間の主観的な目的が自然の目的に常に従属させられなければならないというわけではもちろんないが、「〔人間と自然の〕一元論的な条件の下では、合法的に自然に対して反対することは、個別例においてのみ可能なのであって、全体としては不可能であろう[25]」。本稿の主題をなしている「将来にわたる人類の存続とそれに対する責任」という問題は、まさしく「全� ��的な」問題であり、その意味で自然の目的、すなわち人類の存在に対して、その部分を成すある世代の人類が反対の意志表明をすることは許されない、ということになる。こうして冒頭の問いに対しては、自然がその目的の一つとして人類の地上における現前を告げているということによって、「将来の人類に対する責任」が現在の人類の義務として根拠づけられることになり、それに包摂される「生殖への義務」もまた根拠づけられるのだ、と解答されることになる。

3 討議倫理学による批判とそこから見えてくるもの

 2で見た「将来の人類に対する責任」の根拠づけに対しては、とりわけその形而上学的な性格に関して批判が寄せられてきた。ここでは特にカール=オットー・アーペルによる討議倫理学の� ��場からの批判を取り上げたい。アーペルからの批判が重要なのは、それが「未来に対する責任」という問題をヨーナスと共有しヨーナスの問題提起の意義を汲み取った上でなされたものだからである。

3−1 討議倫理学による批判

 ヨーナスが責任倫理学を提示した際の問題意識については本稿の序において簡単にまとめておいたが、アーペルもまたそれに賛意を表わし、「こんにち不可欠なものとなっている責任倫理学の問題状況とその使命についてハンス・ヨーナスが下している判断は、私見によれば、もっともなものであり、生態学的な危機という背景の前では実際に納得のいくもの[26]」だと言う。
 アーペルは現代テクノロジーという新しい能力がもたらした危機的な状況に相応した、「未来への責任倫理学Zukunf tsverantwortungsethik[27]」が緊急のものとして必要とされており、その合理的な根拠づけが焦眉の課題であると主張するという点では、ヨーナスと立場をともにしている。しかしヨーナスが『責任という原理』で提示したその他の論点に関しては異議を唱える。アーペルのヨーナス批判�br/>**大阪府立大学大学院人間文化学研究科博士後期課程(比較文化専攻)zuschauer[at]live.jp


[1] Hans Jonas, Das Prinzip Verantwortung--Versuch einer Ethik fuer die technologische Zivilisation, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main, 1984(初版1979年).
加藤尚武監訳、『責任という原理』、東新堂、2000年。以下PVと略記し、原文のページ数を「S.」邦訳のページ数を「頁」で併記する。
[2] PV, S.174, 164頁。
[3] Ibid. S.175, 165頁。
[4] Ibid. S.86、邦訳71頁(〔 〕内は引用者による補足)。
[5] Ibid. S.91, 76頁。なお原文では「人間だけが問題となっているかぎり」という限定が付せられている。
[6] Ibid. S.91、邦訳pp.76-77(下線部は原文ではイタリック体)。
[7] 同様の理屈によって、ヨーナスは世界は存在しなければならないか否かという問題は、世界の創造者についての主張から完全に切り離すことができる、と言う。なぜなら、世界の存在が善であることが神が世界を創造した理由であると仮定すれば、世界の存在が善であるがゆえに世界は存在しなければならないというかたちで、神の存在とは独立の問題として世界の存在について考察することができるからである。さらにヨーナスは踏み込んで次のようにも言う。世界が存在するに値すると認めることが、神というものを推論する一つの動機となるのだ、と。このような議論は明らかにグノーシス主義との批判的な対決から出てきたものである。Vgl. ibid. S.98-99, 84頁。
[8] Vgl. ibid. S.153, 141頁。
[9] Hans Jonas, Zur ontologischen Grundlegung einer Zukunftsethik,
Philosophische Untersuchungen und Metaphysische Vermutungen, Insel Verlag,
Frankfurt am Main und Leipzig, 1992. 以下PUMVと略記する。
[10] この段落の記述については、Vgl. PUMV, S.127-128.
[11] Vgl. Ibid. S.129.
[12] Ibid. S.140(下線部は原文ではイタリック体).
[13] Vgl. PV, S.160, 151頁。
[14] Vgl. PUMV, S.135-136.
[15] この点については次節でふれる。
[16] Ibid. S.137(下線部は原文ではイタリック体).
[17] Hans Jonas, Das Prinzip Leben. Ansaetze zu einer philosophischen Biologie, Suhrkamp Taschenbuch Verlag, Frankfurt am Main, 1997(初版はOrganismus und Freiheit. Ansaetze zu einer philosophischen Biologie, Vandenhoeck & Ruprecht, Goettingen,
1973). 細見和之、吉本陵訳、『生命の哲学』、法政大学出版局、2008年。
以下PLと略記し、原文のページ数を「S.」邦訳のページ数を「頁」で併記する。PL, S.9, C頁。
[18] Vgl. ibid. S.23-49, 12-42頁、S.343-372, 377-411頁。
[19] Ibid. S.36, 27頁。
[20] 拙稿「ハンス・ヨーナスの生命の哲学」(「生命の哲学の構築に向けて(1)基本概念、ベルクソン、ヨーナス」の第三章)、『人間科学』(大阪府立大学紀要)、2008年、52-68頁。
[21] PL, S.18, 6頁。
[22] PV, S.142-143, 129頁(下線部は原文ではイタリック体)。
[23] ここには自然は――近代の通念に反して――目的概念とは異質ではないという自然理解が表現されている。この点については拙稿「ハンス・ヨナスの責任倫理学について――『責任という原理』とその背景」、『人間文科学研究集録』、2004年、91-110頁で論じた。とりわけ105-109頁参照。
[24] Vgl. PV, S.147, 133頁参照。
[25] Ibid. S.149, 134頁(〔 〕内は引用者による補足)。
[26] Karl-Otto Apel, Verantwortung heute -nur noch Prinzip der Bewahrung und Selbstbeschraenkung oder immer noch der Befreiung und Verwirklichung von Humanitaet?, Zukunftsethik und Industriegesellschaft, J. Schweitzer Verlag KG, Muenchen, 1986, S.16.
[27] Ibid. S.26.
ただしアーペルはヨーナスとは異なり、責任のモデルは非相互的な関係から生じるものではないと考えており、この点で両者の責任概念は大きく異なっている。両者の対立については次節で考察する。
[28] Vgl. ibid. S.16-17.
[29] Vgl. ibid. S.23-24.
[30] Vgl. ibid. S.25.
[31] Vgl. ibid. S.25.
[32] Ibid. S.20.
[33] この段落の以下の記述については、Vgl. ibid. S.26ff.
また、討議倫理学の超越論的遂行論的(transzendental-pragmatisch)な基礎づけをより詳細に論じたものとしては、舟場保之訳、「責任倫理(学)としての討議倫理(学)――カント倫理学のポスト形而上学的変換」、『カント・現代の論争に生きる 下』、理想社、2000年、pp.127-164を挙げることができる。
[34] Apel, Verantwortung heute, S.29 (下線部は原文ではイタリック体。〔〕内は引用者による補足).
[35] Ibid. S.25.
[36] Ibid. S.26
[37] 品川哲彦、『正義と境を接するもの』、ナカニシヤ出版、2007年。第一部においてヨーナスの責任倫理学が主題として取り上げられているので、本稿では第一部の議論について言及する。なおこの著作では「ヨナス」という表記が用いられている。
[38] 同書、280頁。
[39] 同書、98‐102頁参照。これらのうち@については、品川自身も正当にも述べているように、ヨーナスの基礎づけは「直観主義的基礎づけ」に依拠しているわけではない。ヨーナスが挙げる「赤子に対する責任」は責任の範例を挙げているのであって、責任を基礎づけているというよりは、責任の感情Verantwortungsgefuehl(責任感)の存在を教えてくれるものだと理解すべきだろう。Aは本稿の2−2−2での議論に該当し、Bは本稿の2−2−1の議論に該当する。本稿では『責任という原理』を含む「哲学的探求philosophische Untersuchungen」の議論に限定したので、「形而上学的推測Metaphysische Vermutungen」の議論を取り扱うことはできなかったが、Cは「形而上学的推測」の議論に該当する。
[40] 同書、111頁-112頁参照。
[41] 同書、43頁および100頁参照。
[42] 同書、43頁(下線部は原文では傍点がふられている)。
[43] 本稿3−1でふれたBの論点を指す。
[44] 同書、134-135頁参照。
[45] ここで品川の提示する遂行論的基礎づけに対する論者自身の見解を二点記しておきたい。
まず「人類全体をひとりの判断主体として考える」ということは何を意味しているのかということが問題になると考えられる。というのも、ヨーナスの責任倫理学が提示されたそもそもの出発点は、現在世代が未来世代に対して行使しうる力が圧倒的なものとなってしまい、その結果現在世代と未来世代との間にある力の格差が目に余る仕方で露わになったということにあったからである。その意味では責任倫理学は、まさしく「人類全体をひとりの判断主体」としては設定できないような状況において構想されたものだといえる。もちろんアーペル的な討議倫理学においては人類全体をひとりの理性的存在者としての判断主体として想定するこ� �は可能であろうが、ヨーナスの責任倫理学はそのような想定をすることによって見落とされるもの、すなわち現在と未来の非相互性をこそ問題として捉えようとするものだったのではないだろうか。もしそうだとするならば、ヨーナスの問題系においては「人類をひとりの判断主体として考える」ということは不可能だということになるのではないだろうか。
次に指摘しておきたいのは「動機づけ」の問題である。ヨーナスは倫理学の理論は、客観的な側面すなわち理性に関わる部分と、主観的な側面すなわち感情に関わる部分の両者を備えている(べきな)のだが、多くの場合前者の側面が中心的な主題となっていると指摘し、後者の側面の重要性を特に強調している。「いずれにせよ、抽象的な裁可と具体的な動機づけとの間の溝� ��感情の弓によって橋渡しされなければならない」(PV, S.
164, 154頁)。ヨーナスの存在論的な基礎づけは、対象の善さを認めることによって、対象の善さから責任の感情(責任感)が触発され、倫理的主体が行為へと動機づけられることを可能にする−−もちろんその代償として悪評の高い形而上学に依拠することになるのではあるが。しかしながらこの基礎づけを廃し、発話と行為の論理的な自己矛盾に訴える遂行論的基礎づけに代えたとき、「動機づけ」の問題の重要性が見えにくくなるきらいがないであろうか。アーペルの基礎づけは「合理的な」基礎づけであるとされるが、それはまさしく倫理理論の客観的な側面、すなわち理性に関わる部分を重視した表現であり、主観的な側面、すなわち感情に関わる部分については等閑視されているとは言えないだろうか。そして同様のことが品川の遂� ��論的基礎づけに対しても言いうるのではないだろうか。
[46] 本稿ではこの点については詳論できないが、簡単に素描すると以下のようになる。一方では責任は「非相互的な関係(未来世代や自然との関係)」を基礎において倫理を構想しているのに対し、正義は「自律した個人の相互的で対等な関係」を基礎において倫理を構想しているという点で、両者は互いに異質な原理を根底に据えている。しかしながら他方では「未来世代」に対しては「人間」、自然に対しては「生き物」をキーワードとしてそれらとの「非相互的な関係」はある種の共通性の土台におかれ、その上で「責任」はその共通性に基づく「共感」へと変換され「正義論」の中に回収される傾向をも併せもっている、というのである。このような両義性ないし両面性に対して「境を接する」という表現が与えられていたのである。< br/>[47] 「倫理の<超越論的>基礎づけというこうした発想は、<方法的独我論>という前提の下では不可能であった。つまりその発想は、<思惟アプリオリ>の有する、言語に関係づけられた<コミュニケーション構造>ないし<討議構造>が知られていないかぎり、不可能だったわけである。」カール=オットー・アーペル、「科学時代における責任倫理の合理的基礎づけ」(丸山高司、北尾宏之訳)、『思想』、1986年、739号所収、58頁。
[48] ただし「人格をたんに手段としてだけでなく、同時に目的でもあるように扱え」という格律には実質的なものが含まれていることはヨーナスも認める。ただしこの格律は定言命法からは導き出されず事後的につけ加えられたものだとヨーナスは言うのである。Vgl.
PV, S.169, 160頁。ヨーナスのカント批判は『責任という原理』においては、S.35-38, 21-24頁、S.167-170,
158-160頁、S.230-231, 218-220頁などで見られる。
[49] Vgl. Apel, Verantwortung heute, S.25.
[50] Vgl. PL, S.9, C頁。
[51] アーペルの盟友ハーバーマスの論文「近代Moderne 未完のプロジェクト」(ユルゲン・ハーバーマス、三島憲一編訳、『近代 未完のプロジェクト』、岩波現代文庫、2000年所収)の表現。ハーバーマスはこの論文の中でヨーナスを「老年保守派」として挙げている(同書、41頁)。なおハーバーマスは、徳性(アレテー)や判断力(フロネーシス)を重視し、個人の契約関係を核とする近代市民社会に共同体主義的な社会を対置させるネオ・アリストテリズムも「老年保守派」に数えいれているが、アーペルはヨーナスの哲学とネオ・アリストテリズムとは、後者が「形而上学抜きのプラグマティックなアリストテレス主義」であるがゆえに、別ものであるとしている。Vgl. Apel, Verantwortung heute, S.19-20.
[52]品川哲彦、『正義と境を接するもの』、ナカニシヤ出版、2007年、43頁。
[53] 「産む産まないは女が決める」という考え方については、森岡正博『生命学に何ができるか』(勁草書房、2001年)第3章に詳細な分析がある。日本では1970年代初頭にウーマン・リブによって主張されたものであり、様々な言い方で展開された。英語ではリプロダクティブライツの一部としてそれが提唱されているが、その解釈や、リプロダクティブヘルスとの関連をめぐって錯綜がある。
[54] 正確には、男性たちのほかに、他の性的アイデンティティの人間たちも含めて考えなければならない。であるならば非女性としたほうがよいかもしれないが、しかしそれではマジョリティ権力である男性を不可視化することになりかねない。このような困難があることを自覚しているという点を付記しておきたい。
[55] 原ひろ子は、「種としてのヒトが各社会単位ないしは、種全体として次世代を育てていく能力をどのように確保していくか」という観点から、「次世代育成力」という概念を提唱している。将来世代を産出する義務があるとすれば、それは原の言うような「次世代育成力」と深く関連することになるだろう。原ひろ子「次世代育成力―類としての課題」原ひろ子・舘かおる『母性から次世代育成力へ―産み育てる社会のために』新曜社、1991年、305〜330頁(引用箇所は324頁)。
[56] 本論文に盛り込む予定であったが果たせなかった論点として、「人工子宮が完成した宇宙船状況においてはどのようになるか」「産みたいという欲望の内実はそもそも何なのか」「欲望・願望と義務の違い」「「できちゃった婚」に象徴されるような産出力とは」「個人の存在は持続を内包するのではないか」というものがある。これらについては別の機会に展開することとしたい。

 



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