2012年3月23日金曜日

バレーボールワールドカップ2011 - フジテレビ


90年代後半から低迷していた全日本女子にあって、2003年、キラ星のように現れた19歳コンビ。新世代のヒロインとなったのが大山さんでした。

写真提供:月刊バレーボール

――大山さんが最後にワールドカップへ出場した前回大会から4年が経ちました。

大山「(プレーやケガや仕事などで)1年1年めまぐるしく変化した濃い4年でしたが、過ぎてみるとあっという間ですね。もう4年経つんだ、と思います。でもあのときは、まさか4年後に引退しているとは思ってもなかったですね」

――大山さんは小学生でバレーボールを始められましたが、この大会をはじめて認識したのはいつになりますか?

大山「小学校5年… 95年ですね。バレーを始めてから、全日本は夢、憧れでした。好きだったのは佐伯美香さん。レシーブが上手でスパイクもすごい。決めた後の笑顔もかわいくて憧れましたね。ワールドカップでは、99年の加藤(陽一)さん、朝日(健太郎)さん、西村(晃一)さんの活躍はすごく印象に残っています。このときは、自分も中学選抜で日の丸をつけて試合に出ていたので、『自分に(全日本は)近いんだ』という感覚で、この舞台に立ちたいと思って試合を観ていました。大会が明確な目標になったのが99年でした」


写真提供:月刊バレーボール

――目標となったワールドカップという大会。大山さんにどう映りましたか?

大山「日本開催ですごく盛り上がっていたし、たくさんの人に見てもらえるので、特別な感じがしていました。初出場の前年(2002年)に世界選手権で全日本での国際大会デビューをしましたが、本当の意味でデビューはこのワールドカップ。全日本入り、五輪出場という夢への第一歩となった大会で、特別な思い入れがあります」

――ワールドカップをデビューと思っているのは、どのようなことからですか?

大山「世界選手権はワンポイントや途中出場が多かったし、一人だけ高校生で、チームの中では『お客さん』でした。それに当時の全日本は低迷(※世界選手権は13位)していて、その後のアジア大会でスタメンに抜擢されてきたときから、日の丸の重さ、責任の重さを感じて、『何とかしなきゃいけない』と、思い始めたんです。そして迎えたのがワールドカップでした」

――そして、2003年大会です。日の丸の重みを感じ、またご自身「デビュー」と位置づけている大会で、世界選手権とまた違った緊張があったと思いますが?


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大山「世界選手権は、まだ誰も私に期待してなかったと思うんですね。でもワールドカップでは周囲の期待をすごく感じて、違ったプレッシャーはありました。でも、キャプテンの吉原(知子)さんに、『思い切りやろう』と言っていただき、伸び伸びやれる雰囲気も作っていただいた。とにかくチームのことは先輩方に任せて、自分のやるべきことを無我夢中でやろうと考えました」

――低迷からの浮上を目指したワールドカップ。当時の全日本はいかがでしたか?

大山「とにかく練習量が多くて厳しかった。『お客さん』だった世界選手権のときは、練習も扱いが違っていました。ワールドカップでは自分たちがやらなきゃいけないと思っていたし、柳本監督にもそう言われていて… 毎日辛くて泣いてばかりでしたね。同い年のメグ(栗原選手)がいたり、2つ下にサオリ(木村選手)がいて、気持ち的に救われる部分は多かったですけど、先輩方にも言えないこともたくさんあったし… 練習を含めて、自分のやってきたバレーと違うところに飛び込んだというか、面食らったところもありました」

――そんな苦しみを経験した大山さんですが、柳本監督が就任して、栗原選手とともにエースに抜擢されました。開幕の4日ほど前に大会のスタメンを言われたそうですが?

大山「練習でも薄々感じてはいたので、何となく心の準備だけはしていた感じでした。自分でいいのかなという不安はすごく大きかったですが、もうやるしかないと。二人で『いいプレーをして、先輩方の足を引っ張らないように』という意識が強くなりました。それに、実力もないのに自分を選んでくれた監督の期待に応えるためにも頑張らなきゃと」

開幕すると、大山さんは一試合ごとにたくましく成長。そして、瞬く間に大山さんの人気が爆発し、"メグ・カナフィーバー"で大会も盛り上がりを見せました。

写真提供:月刊バレーボール

――そして試合に入りました。一番印象に残っているのはどの試合になりますか?

大山「2003年は全試合いろいろありましたが… 初戦のアルゼンチン戦ではMIP賞をいただいて、自信になりましたね。ものすごい応援の中でやるのがすごく楽しくて。緊張はしていたはずなんですけど、はじまったら楽しめていました(笑)。逆に、次の韓国戦はうまくいかず途中交代、名古屋ではイタリア、アメリカにボロ負け。『世界には通用しないのかな?』『チームの足を引っ張ってるんじゃないかな?』という、自分の悪いマイナスの部分が出てきて…プレッシャーを感じはじめていましたね」

――ですが、次の札幌大会ではトルコ、ドミニカ共和国に連勝。そして3戦目では、歴史に残る大接戦の末、欧州王者のポーランドを破りました。


現在のコーチ/ゼネラルマネージャー/チーム所有者は誰だ

大山「(試合後インタビューでアナウンサーの)森さんが泣いてしまった試合ですね(笑)。名古屋とは逆に、ポーランド戦で接戦の中で勝ち切ったということがすごく自信になりました。次の大阪ではブラジル、中国に負けましたが、実は、プレーで一番印象に残っているのがキューバ戦(10戦目)。バックアタックが冴えていたんです。バックアタックは高校時代全然打ってなくて、全日本に入って初めて練習したんです(笑)。その頑張ったバックアタックがキューバに通用したというのがうれしくて。アルゼンチン戦やポーランド戦よりも、プレーはこの試合がベストだったと思います」

――結局、この大会は7勝4敗の5位でした。この結果というのはいかがでしたか?

大山「ホッとしました。大会が終わったこともそうですけど、世界選手権13位から5位というのもありました。何より、『お客さん』から戦力になれたという大会で、自分ができることはできたかなと思います。それに、同じ本気の試合ができたことで、大舞台の試合に慣れることができたし、これがアテネにも繋がったんじゃないかなと思います」

――そして2003年大会と言えば、忘れられないのが"メグ・カナフィーバー"です。正直、当事者として、どう思っていましたか?

大山「取材が多いときは『私たちでいいのかな?』って話はしていましたけど、実はあまり実感がなかったんです。大会中はテレビも見ていなかったですし、フィーバーだからというプレッシャーもありませんでした。OQT後に東京ディズニーランドに行ったとき、人が集まらないように並ばずアトラクションに乗せてもらったときは実感しましたが(笑)。でも一番実感したのはリーグ戦が始まってからでしたね」

――どのようなことがあって、実感されたのですか?

大山「リーグ戦に入り、過度にライバル視されることが多くなりましたね。『仲間なのにね』ってよく話したのを覚えています。ライバルと言われて、当時はギクシャクしたこともありました。それに…リーグ戦で腰痛が出てきてしまい、周りの評価や期待と、『自分はそこまでの選手じゃない』と自分の実力にギャップを感じるようになって。 それは本当に辛かったですね」

写真提供:月刊バレーボール

日本中でフィーバーを巻き起こした大会直後から、大山さんはケガとの戦いを強いられるように。そして続く2007年、W杯の舞台に戻ってきました。満身創痍の状態で…

写真提供:月刊バレーボール

――2003年以降はまさにケガとの戦いになりました。2007年大会前は右肩と腰のケガに苦しみ、ギリギリでチームに合流しました。


それがビスマルク、ノースダコタ州で何時間です

大山「呼んでくれた柳本監督に応えたいという思いもあったし、ここで出なければ(次年の)北京への道がなくなると思って、合宿に参加したんですが、実は、腰は真っ直ぐ伸びず、ほとんどプレーできる状態でなかったんです。正直、一日一日を過ごすのが精一杯というくらい… そんな状態だから、何度もメンバーを外してほしいと言おうとしたんですが、やっぱり北京に出たいというのがあって言い出せず… それに自分はチームにいちゃいけないんじゃないか、という気持ちもあり。そんな葛藤を毎日抱えてましたね」

――そんな状況の中、3戦目のセルビア戦で2セットビハインドの3セット目に途中出場。ものすごい歓声で迎えられました。

大山「でも2007年に関しては、どこと試合したかも記憶がないんです。この試合、"チョップ"(小指に当たった打ち損じ)したスパイクが決まったことしか覚えてない(笑)。でもこの声援だけは覚えています。『みんな待っててくれたんだ』とうれしくてゾクゾクしました。でもチームには申し訳なくて。私が出たらマイナスになると思ってプレーしましたね」

――ちなみにこの大会では6点獲っています。アタック5本にブロック1本でした。

大山「あの動けない状況で6点も獲れたんですか? アップもできないから、ストレッチでごまかしていたし。試合に出ることすらすごいと思うし、何でスパイクを打てたのか。アドレナリンと、五輪に対する思いだったんでしょうね」

――苦しんだ大会でしたが、この経験から得たものもあったと思います。

大山「選手にとってケガはマイナスですけど、引退した今はケガをしてよかったと思います。2003年のままいってたら、選手としては良かったかもしれないけど、人としてどうだったか…。バレーができるのは幸せと感じられたり、(ケガ中に)裏方の仕事を経験したことで、その大変さやどれだけ支えられていたかもわかった。人の痛みを知ることもできたのが大きかったですね。これからの人生のほうが長いですし、この貴重な経験を無駄にしたら意味がないので、今後の人生に活かしていきたいと思いますね」

前回大会から4年。惜しまれつつ現役を退いた大山さんは、今大会から新たなことにも挑戦。リポーターとして、プレーを伝える側に回ります。

――今後の人生という話ですが、昨年現役を引退された大山さんは、今大会、リポーターとしてデビューします。まもなく大会も始まりますが?


大山「不安で仕方がないです。しかもコートサイド(のリポーター)は、画面だけじゃ伝わらないことも伝えなきゃいけないですし、話の入るタイミングも難しいだろうなと思います。でも、選手に一番近い立場でもあるし、自分だからこそ伝えられることを伝えていきたいと思います。VTRを見て勉強していますが、言葉が出てこない(苦笑)。試合と比べて? 試合に出るほうがいいです! でも頑張ります! 胃が痛い1ヵ月になりそうですけど(笑)」

――そんな、プレーする側から伝える側になられた大山さんからご覧になって、今大会の見どころを教えてください。

大山「山本選手、井上選手のケガはチームにとってマイナスになると思いますが、チームというのは、ピンチのときに今までなかった力も出ます。それに荒木を中心にチームワークがいいチームなので、今まで以上に結束した全員バレーが見られるんじゃないのかなと思います。チームワークで戦う姿こそが、今の日本を元気にしてくれると思うので、そんなプレーに期待したいですね」

――注目の選手となるといかがですか?

大山「やっぱり同期の荒木ですね。去年はなかなか試合にも出られず苦しい思いをしたので、今年はその分も頑張ってほしい。(山本、井上が欠場で)ミドルブロッカーは絵里香が頑張らないといけない状況ですし。それに昔からピンチに強いので、今回もかなりやってくれるはず。あのガッツポーズがたくさん見られたら、日本はきっといい成績を収めているはずです!」

――後輩の木村選手への期待も大きいと思います。

大山「絵里香が調子いいと、沙織も乗ってくるんですよね。今回は大黒柱として相当プレッシャーがあると思いますが、あまり背負わずに、沙織らしくノビノビやってほしい。そしてチームとしても、このピンチをチャンスに変えて、チーム一丸となって戦ってほしいと思います」

――それでは最後に、ご自身のリポーターとしての意気込みもお願いします。

大山「不安だらけですが、たくさんの人にバレーを好きになってもらえるように、選手の頑張り、魅力を伝えられるように頑張ります! 皆さんも全日本に応援よろしくお願いします!!」



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