ウォーターゲート事件 - Wikipedia
ウォーターゲート事件(英語:Watergate Scandal, もしくは単に"Watergate")とは、1972年から1974年に起きたアメリカの政治スキャンダル。リチャード・ニクソン大統領の辞任に結びついた。
事件は、ニクソン共和党政権の野党だった民主党本部があるウォーターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、不審者が盗聴器を仕掛けようと侵入したことから始まった。当初ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事件と政権とは無関係」との立場をとったが、ワシントン・ポストなどの取材から次第に政権による野党盗聴への関与と司法妨害が明らかになり、世論の反発によってアメリカ史上初めて現役大統領が任期中に辞任に追い込まれる事態となった。
[編集] 事実の経緯
[編集] 不法侵入
1972年6月17日、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビルで働く警備員フランク・ウィルズが建物の最下部階段の吹き抜けと駐車場の間のドア上に奇妙なテープが貼られているのに気付いた。彼は清掃員が作業中にドアの鍵がロックされないよう貼ったものと考え、何の気なくテープをはぎ取ったのだが、すぐさま何者かによって貼り直されていた。このことを不審に思い、彼がワシントン市警に通報したところから事件は始まる。
警察の到着後、同ビルに入居していた民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入の罪で、5人の男が現行犯逮捕された。5人とは、バーナード・バーカー、バージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルチネス、ジェームズ・W・マッコード・ジュニアおよびフランク・スタージスである。いくつかの彼らが撮った写真から3週間前にも同オフィスへ侵入しており、今回の侵入は正常に動作していなかった盗聴器を再設置するためのものであったことが判明した。
二度も同じオフィスへ侵入しなければならなくなったことは、侵入犯側の多くのミスの最たるものであったが、さらに致命的なミスとなったのは、警察が押収したマッコードの手帳の中にエドワード・ハワード・ハントのホワイトハウス内の連絡先電話番号が見つかったことであった。ハントはニクソン大統領再選委員会(Committee to Re-elect the President, CREEPまたはCRP)で以前働いていたことがあったため、侵入犯がニクソン大統領に近い者と関係があるのではないかとの疑念が生まれた。これに対し、ニクソン大統領の報道担当官ロナルド・ジーグラーは、三流のコソ泥(third rate burglary)とコメントし、ホワイトハウスとは無関係であるとして一蹴した。
[編集] 「ディープ・スロート」
審問の過程で、マッコードがCIAの元局員で大統領再選委員会の警備主任であったことが判明する。ワシントン連邦地方検事局(アール・J・シルバート主任検事補ほか)はマッコードとCIAの関係の調査を始め、彼が大統領再選委員会から何らかの賃金を受取っていることを発見する。同じ頃、ワシントン・ポストの記者ボブ・ウッドワードは同僚カール・バーンスタインと共に独自の調査を始め、事件に関する様々な事実を紙面に発表した。内容の多くはFBIおよび他の政府調査官には既知のものではあったが、ウォーターゲート事件に対する世間の注目を集めることとなり、ニクソン大統領やその側近を窮地に立たせる結果となった。ウッドワードによって「ディープ・スロート」と名づけられた内部情報提供者の素性はウォーター� �ート事件におけるミステリーとされていた[1]
[編集] 捜査妨害
ニクソン大統領とハリー・ロビンス・ハルデマン大統領首席補佐官は、7月23日、FBIの犯罪調査を遅らせるようCIAに依頼する件について議論を行う。その様子はテープ録音されており、後に特別検察官に提出を求められることとなる。
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この後ニクソンは「国家安全保障」が危険にさらされるだろうと主張し、CIAのバーノン・A・ウォーターズ副長官[2]にFBIの調査を妨害するよう指示した。表向きには「メキシコ人はCIAの協力者であるから、メキシコでの捜査はCIA工作の暴露につながる」と言うことだったが、盗聴工作の資金であるメキシコ人ビジネスマンを隠れ蓑にしたケネス・H・ダールバーグからの秘密献金の存在を隠蔽することが目的だった[3]。
一連の不正工作は、ジョージ・ゴードン・リディおよびエドワード・ハワード・ハントを中心としたニクソン大統領再選委員会職員が主導していた。彼らは、別名鉛管工(plumber unit)」と呼ばれる特別調査ユニットで情報漏洩の調査や、民主党員および反戦運動活動家に対する工作を多数行っていたとされる。最も有名なのは、ペンタゴン・ペーパーズを漏洩したダニエル・エルズバーグが通っていた精神科医ルイス・J・フィールディングのオフィスへの不法侵入をしたことである。この時に漏洩の証拠が見つかることはなかったが、後に侵入の行為が明らかとなり、エルズバーグ訴追は「政府の不正行為」として却下された。
ジョン・N・ミッチェル司法長官、ハルデマン首席補佐官、チャールズ・W・コルソン特別補佐官およびジョン・アーリックマン内政担当補佐官、およびニクソン自身のようなホワイトハウスをリードする人物がこれら不正行為の計画にどれほど深く関与したかはいまだ論争の対象である。ミッチェルは当時大統領再選委員会の責任者であり、選挙運動本部長だったジェブ・スチュアート・マグルーダーやフレデリック・C・ラルーと共に(ハントとリディの侵入を含む)スパイ活動計画を承認してはいるものの、それが彼らの上からの指示であるかどうかは不明瞭である[4]。
[編集] 上院ウォーターゲート特別委員会
1973年1月8日に、リディとハントを加えた侵入犯は裁判にかけられることとなり、マッコードとリディ以外の全員が有罪を認めた。裁判では被告全員に対し、犯罪の共同謀議、家宅侵入および盗聴について有罪の判決が下されることになるが、被告が証言をせず有罪を認めるように賄賂が支払われたという事実もまた明るみに出てしまう。
これに対してジョン・J・シリカワシントン連邦地方裁判所判事・所長(最高刑を下す事が多いため「マキシマム・ジョン」として知られる)は大いに怒り、被告に対して30年の刑を言い渡すと同時にグループが事件の調査に協力的であるなら判決を再考するとも述べた。この判事の発言に応じてマッコードが自らの大統領再選委員会との関係と偽証を認めたため、この侵入犯に対する裁判は家宅侵入の裁判および有罪宣告で終わり、代わりに事件の調査がさらに進展することとなる。サム・J・アーヴィンJr.上院議員によって上院ウォーターゲート特別委員会が設置され、ホワイトハウスの職員の召喚が始まった。
[編集] 審問開始
4月30日にニクソンは、彼がもっとも頼りにしているハルデマンとアーリックマン両補佐官の辞職を余儀なくされた。加えて、ホワイトハウスの法律顧問ジョン・ディーンも解雇。これは、ディーンがニクソン自身にとって非常に不利な証人になる恐れを警戒したものであった。同日、司法長官をエリオット・L・リチャードソンに代え、彼に特別検察官を指名する権限を与えた。これに基づき5月18日に、リチャードソンは特別検察官にアーチボルド・コックスを指名。テレビ放送された審問は、前日の5月17日アメリカ上院で始まった[5]。
コックスがリベラルなハーバード大学の教授であり、政敵ケネディの司法次官であったことから、ニクソンは恐れていた。
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[編集] 録音テープ
上院ウォーターゲート特別委員会の公聴会は、夏のうちのほとんどを通じて放送され、それはニクソンへの致命的な政治的打撃となった[6]。殊に7月13日での特別委員会に出席したバターフィールド大統領副補佐官が、ホワイトハウスの録音システムが大統領執務室中の全会話を自動的に記録し、ニクソンまたはディーンが重要会合についての真実を伝えているかどうか証明することができる録音テープも存在すると発言[7]。重要な証拠の存在が明らかになったことから、コックス検察官と上院特別委員会は、直ちにホワイトハウスに対しテープの提出を命じた。
[編集] 土曜日の夜の虐殺
ニクソンは大統領特権でこれを拒絶し、彼への提出命令を無効にするようリチャードソン司法長官経由でコックスに命じた。コックスがこれを拒否したため、1973年10月20日の土曜日の夜の虐殺と呼ばれる事件に発展する。
提出命令を無効にすることを拒否されたニクソンは、次にコックスを解任することを画策、リチャードソン司法長官に対してコックスを解任するよう要請した。しかし、リチャードソンはこの命令を受け入れることを拒否し辞任、ニクソンは次にウィリアム・D・ラッケルズハウス司法副長官に対しても同様の要請を行ったが、ラッケルズハウス副長官もこれを拒否し、辞任した。結局、特別検察官を解任したのは、ロバート・H・ボークという新任の訟務長官であった。1973年11月17日、フロリダ州オーランドでニクソンは400人の記者の前で自らの行為に対する弁明を行う。「私はペテン師ではない(I am not a crook.)」という有名なセリフは、この時の弁明で生まれたものである。
この結果として大統領弾劾法案が提出され、特別検察官としてレオン・ジャオロスキが後任として選ばれた(後にヘンリー・ルースが引き継ぐ)。
[編集] 秘密テープ提出
ニクソンがテープの公開を拒絶し続けた一方、ホワイトハウスが編集したテープの筆記録[8]を提出することには合意した。だが、公表された筆記録には削除箇所が多数存在し[9]、ニクソンの支持層の中心だった保守層からもニクソン支持を大きく低下させる結果になった。
また、テープの大部分はディーンの報告を認めるものだったものの、その中の1本に18分30秒の消去された部分があることも判明。世論の疑惑を引き起こしたがホワイトハウスは、ニクソンの秘書だったローズ・メアリー・ウッズが電話応答の際に誤って録音機につけたペダルを踏んでテープを消去したと説明した。
だが、ウッズが電話に出ながらペダルを踏むには、体操選手並に手足を伸ばさなければならないなど相当無理な姿勢になり、その様子を再現した写真もセンセーショナルに取り上げられてしまった。後に鑑定したところ、この消去は複数回にわたり念入りに行われたことであることが判明し、尚且つ違法行為として訴追対象になるほど大幅であることも判明した[10]。
テープ提出の問題は最高裁判所まで争われるが、1974年7月24日、テープに対するニクソンの大統領特権の申し立ては無効とし、さらにコックスの後任の特別検察官レオン・ジャウォロスキーにテープを引き渡すように命じるという判決が全員一致で決定する(レンキスト長官は辞退)。この命令に従い、ニクソンは7月30日に問題のテープを引き渡すこととなる。
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[編集] 弾劾条項
1974年3月1日、大統領の7人の元側近(ハルデマン、アーリックマン、ミッチェル、コルソン、ゴードン・C・ストローン、ロバート・C・マーディアンおよびケネス・W・パーキンソン)がウォーターゲート事件の捜査妨害をたくらんだことで起訴された。大陪審はさらに秘密にニクソンを起訴されていない共謀者(犯罪の共謀は一つの刑事罪名である)として指名した。ディーン、マグルーダーおよび他の人物は既に有罪を認めていた。
ニクソンの地位はますます不安定になっていく中、下院は大統領の弾劾の形式上の調査を始める。下院司法委員会では1974年7月27日に27票対11票で大統領に対する第1の弾劾(司法妨害)を勧告することが可決され、さらにその後7月29日には第2の弾劾(権力の乱用)が、また7月30日には第3の弾劾(議会に対する侮辱)までもが可決されてしまう。
侵入のわずか数日後、1972年6月23日に記録されたテープが公開された。その中でニクソンとハルデマンは国家安全保障に対する問題を捏造することにより調査を阻む計画を作ったことが明らかにされた。テープは決定的証拠(smoking gun)と呼ばれた。大統領弾劾を決定する上院でのニクソンへの支持は下院同様弱かった。
[編集] 大統領辞職
弾劾の決議を受けるに足る十分な票があることが共和党上院議員によって伝えられ、ニクソンは自らの意思で辞職することを決定した。1974年8月8日夜の国民全体へのテレビ演説で、ニクソンは8月9日正午に辞職することを発表した[11]。
ニクソンの辞任後は副大統領のジェラルド・R・フォードが大統領に昇格し、9月8日、「ニクソン大統領が行った可能性のある犯罪について、無条件の大統領特別恩赦を、裁判に先行して行う」という声明を発表した。これによりニクソンは以後一切の捜査や裁判を免れたが、恩赦を受けることは有罪を認めることを意味していた。
コルソンはその後エルズバーグ事件に関する告発について有罪を認めて、隠蔽への告発が取り下げられた。ストローンに対する告発は取り下げられた。3月に起訴された7人のうちの残りの5人は、1974年10月に公判が行われた。1975年1月1日に、パーキンソン以外のすべては有罪になった。1976年には上訴裁判所がマーディアンのために新しい裁判を命じた。また、彼に対する告発はすべて取り下げられた。ハルデマン、アーリックマンおよびミッチェルは1977年に弁明を終えた。アーリックマンは1976年に、他の2人は1977年に刑務所に入った。
ウォーターゲート事件の影響はニクソンの辞職と補佐官のうちの数人の刑務所への収容だけで終わらなかった。ウォーターゲート事件によって選挙運動での資金調達が大幅に変わることにつながる新しい法律が成立した。
またそれは、重要な政府高官の新しい資産公開要求の法律と同様に「情報の自由法」可決の主な要因となった。法律上要求されることではないが、最近の所得税形式の公開のような他のタイプの個人情報開示は期待されるようになった。
ニクソンは1972年の選挙において優勢だったが、対立候補ジョージ・マクガバンと討論することを拒絶した。以来、討論を回避することができた主な大統領候補はいない。フランクリン・ルーズベルト以来の大統領は会話の多くを記録した。しかし、ウォーターゲート事件以降、このような記録は事実上存在しなくなった。
ウォーターゲート事件は、マスメディアが政治家の活動について報告することに精力的になる新時代に結びついた。例えば、有力な下院歳入委員長ウィルバー・ミルズが、ニクソンの辞職数か月後に飲酒運転で事故を起こした時、それまではその種のことに対して追及されることはなかったが、事件は報道されミルズはすぐに辞職しなければならなかった。加えて、記者がより精力的に重要な政治家の個人行為を明らかにすることによりさらに政治的な問題についての報告も増加することとなった。
ただ、ウォーターゲート事件については政治的なクーデターという見方も少なからず存在する。かの「ディープスロート」の正体がFBI副長官だった[1]ことからも、デタントに前向きだったニクソンを保守派の根強いFBIが追い落としを図ったとも言われている。
[編集] 同事件を描いた作品
[編集] 同事件の文献
- 『大統領の陰謀 ニクソンを追いつめた300日』、『最後の日々 続・大統領の陰謀』 上・下
- 『ディープ・スロート 大統領を葬った男』
- ボブ・ウッドワード、伏見威蕃訳、文藝春秋、2005年
- 『静かなるクーデター 「ウォーターゲート事件」20年後の真実』
- レン・コロドニー、ロバート・ゲトリン 斎藤元一、柴田寛二訳、新潮社、1993年
- ^ a b その正体は当時FBI副長官であったマーク・フェルトだったが、二人は彼が死んだ後で全てを明らかにしようとしていた。だが、2005年5月31日にフェルト本人が自分がディープスロートと告白、二人もそれを認めている。なお、こうした経緯からフェルトが告白して以降は、「警察がマスメディアを利用しニクソン大統領を辞任に追い込んだクーデター」とする見方もある。
- ^ 陸軍中将だったウォーターズは、ニクソン大統領とは大佐時代の南アメリカ旅行以来の仲であり、軍人だから命令に100%従うと目されていた。
- ^ ウォーターズはジェームズ・R・シュレジンジャー長官と相談した上で、「CIAのメキシコでの活動には無関係」だと捜査当局に証言した
- ^ 例えばマグルーダーは、「ニクソンがミッチェルにローレンス・R・オブライエン民主党全国委員長の活動情報収集のための侵入指揮を命令した」のを立ち聞きしたとか、様々な報告書を提出している。その中身は関与を認めているものもあれば、無関係だと言うものもあり、未だに真相の全ては明らかになっていない。
- ^ 本来の担当者のシルバート連邦地方検事局事件捜査主任検事やピーターセン刑事局担当司法次官補などは、捜査内容をホワイトハウスに報告していたとして不信を買っていた。FBIは絶対権力者のフーバー長官が死亡して、ニクソンの友人であるグレイ(軍人)が長官代行だったため、ホワイトハウスの圧力に弱いと思われた
- ^ 日本でもアメリカ軍放送のFENが中継した。
- ^ これは正式な証言ではなく、委員会スタッフ・メンバーとのインタビューでの発言だった。後に公開でも証言した
- ^ この記載内容についてはジョン・C・ステニス上院軍事委員長(民主党だが保守派の盟友)が内容を保証したが、ステニスはニクソンとは親しい間柄であるばかりか高齢のため耳が不自由だった。
- ^ その多くはニクソン自身が発した下品な言葉で、放送禁止用語も含まれていた。
- ^ スティーブ・ブル副補佐官とウッズ秘書がキャンプ・デービッドで消去したのではないかと、ケスラーは述べている
- ^ なお、時にニクソンは弾劾を受けた唯一の大統領として紹介されることがあるが、現実には弾劾の決議が出る前に辞職してしまったために、ニクソンは現実に弾劾されていないし有罪と判決されてもいない。
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